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蚕都(さんと)上田

・上田市で蚕糸業が栄えた理由

太郎山山麓には、蚕都上田を支えた蚕のエサである桑葉が多く栽培されていました。そこは扇状地で水はけもいいため、桑栽培に最適でした。また、果樹栽培にも適しており太郎山山麓の山口でりんごが特産となったのは、そのためです。米を経済基盤としていた江戸幕府は田畑への桑の植え付けを禁止していました。しかし、信濃国(長野県)では、田畑として利用できない河原の荒地や山腹の傾斜地が多く、禁止令に違反することなく桑園を設けることができました。このことが養糸業を繁栄させた大きな理由と言えます。大正から昭和初期は養蚕全盛期で桑葉はかなり標高の高いところまで栽培されていました。

・桑に自然の肥料を与えた千曲川

千曲川の河川敷は蚕種栽培には欠かせない場所でした。古代から洪水を繰り返し多大な被害を与えましたが、その反面上流から肥沃は土壌を運んできました。桑の木は地下に1メートルも根を張り、簡単には流されないことも桑が繁殖した大きな特徴でしょう。

・塩尻地籍を吹く強風が最適な桑を栽培した

カイコノウジバエが桑葉に産卵し、これをのみこんだ蚕は、体内で孵化(ふか)したウジが繭に穴をあけて外へ出るため蛹をだめにすることがあります。坂城と上田の境である岩鼻の辺りは地形が狭くなっています。そのため周辺では強風が吹くのですが、これが不良の蛹をふるい落としてくれました。とても貴重な桑で、歩桑(ぶくわ)といいます。蚕種業が発達した大きな理由です。 

・人々の苦労によって生まれた繁栄

明治・大正時代の太郎山山麓、当時の運搬手段は人力です。人々は下の集落から桑の葉を採るために山道を登り、帰りはそれを背負って山を下りることを繰り返しました。上田繁栄の背景にある歴史や苦労を伝えていきたいと思います。

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