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真田三代(真田幸隆・昌幸・幸村)と太郎山の歴史

真田幸隆(ゆきたか)は、武田信玄に従い「攻め弾正」と言われるほどの戦上手。 1550年9月、武田軍は砥石城を攻略しようとするが、「砥石崩れ」と言われるほどに村上義清に散々打ち破られる。この頃の村上軍は坂城から太郎山にかけては、砥石城を繋ぐために多くの山城、砦(とりで)があり、太郎山にも3つの砦、花古屋城牛伏城アラ城があったとされる。幸隆は「砥石崩れ」の翌年から村上方の諸将への密通工作や寝返り工作で、一夜にして砥石城を奪って、武田信玄を驚かせた。上杉謙信との川中島での複数の戦いでも坂城・千曲・長野市辺りの豪族を次々と寝返らせ手柄を立てた。

真田昌幸は、幸隆の三男にあたるが、どちらかというと「守り」の巧い性格。その頃山城よりも交通の重点を押さえ、商業や経済を取り込むために平城が必要な時代に入り、上田城を築城し、武田氏滅亡後、北条・徳川・上杉と主を変えた。1585年、上田に攻め込んだ徳川軍7,000人に対し一歩も引かずに2,000人で応戦、これを撃退した。(第一次上田合戦;神川合戦)また、1600年には徳川秀忠率いる35,000人の軍勢を2,500人で守る上田城で釘付けにし、徳川本隊を関ケ原の戦いに参加させなかった。(第二次上田合戦)

真田幸村(信繁)は、昌幸の次男。昌幸の知略に翻弄され、若い頃から上杉や豊臣に人質として出され苦労したが、1614年大坂冬の陣では、豊臣方に参戦し、外堀に真田丸を築城し、徳川軍を寄せ付けず、翌年の夏の陣では徳川家康の本陣近くまで突撃し、さすがの家康も一時は自刃しようと腹をくくったとされる。昌幸の外交手腕を反面教師にして潔く豊臣に最後まで従い全うした。この潔さが後世、幸村の人気の理由となり講談や小説に取り上げられ、真田十勇士などが生み出された。

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